抜けるような青い空

映画の一場面のカメラアングルをいちいち説明している人がいるのですが、解説するにもワザが必要で単に説明すればいいってものでもなく、たとえばラーメンを食べながら塩の加減がよいといちいち言う輩は面倒くさいだけ。ふつうにラーメンをおいしくいただきなさいよと思うのです。ラーメンを食べながら出汁がなにか考えるのは同業のラーメンを作る人だけがすればよろしい。食べる人はおいしくいただくにかぎります。

使う道具がなにかとか、準備が大変だとかそういう話は見せない方が粋です。粋の反対は野暮。ただ、野暮の中でも良い野暮があってほんとうに好きすぎて結果洗練されない野暮が生まれます。こういう野暮はあるところまで技術が昇華すると転換して粋になります。たとえば、だじゃれを言う人が苦手です。ただの音が似ていることが面白いとは思いません。洗練の度合いが低いのが昔からイヤでした。あとお笑い番組でもものまねが苦手です。面白いと思ったことがありません。

先日教わったのですが、女優のあおいそらのなまえの由来が「抜けるような」なんだそうです。あまりにくだらなすぎて感心してしまいました。その名付けた人の才能はもっと別な場所に生かすべきです。センスの良い人が陽の当たる場所に居た方が世の中は面白くなります。いまの世の中がこじんまりとしてしまったのは、才能を見つけて伸ばす業界なり人が居なくなったからです。

たとえばコンピューターなりwebが元気だった頃は生きの良い人がほうぼうから集まってきました。産業が大きくなるときと、その業界が伸びていく黎明期には不定形の雑多な人間がいろいろなアイディアを持ち寄って仕事をしてくれます。ある程度会社が大きくなると有名大学の新卒社員を採用して福利厚生を厚くして、最終的には官僚的でさして面白みのない会社ができあがります。面白くない会社が物を作ると面白くないものができあがります。なぜなら、会社が世間に認められる頃には「ぬけるような青い空」という考えオチの洒落が思いつく人がその中に居なくなるからです。