おたんこナースのお仕事

あたらしいwordpressのテーマに変更して、デフォルトで運用していましたが、全文が読めないと不便なので設定を直します。テーマの設定で全文表示のチェックボックスをオンにして作業終了。

こんな便利な道具をタダで使ってよいのか、世の中は不思議。使いにくい物が高い値段で売ってると思えば、更新されて良くなるソフトウェアがタダで使えます。

高くて使いにくい物ってなんでしょう。思いつくのは、まず自動車。最近FRで車高の高い乗物を転がしているので、ドライブはイヤではなくなってきました。元々苦手なのが、まあいいかなあと思える程度ではあります。

テレビは、中身のソフトが悲惨なほどダメなのに、見るのに時間がかかります。真相を知るためにコマーシャルを跨ぎ、箇条書きで三行ぐらいの話に五分かけたり、俳優様のステキなこの後のドラマのお知らせがあり、あんな叫んでるだけのセリフ回しのテレビ映画なんて誰が観るのかはなはだ疑問であります。あの叫ぶ演技はいつからなのでしょうか。

織田裕二は叫んでます。佐藤浩市も叫んでそう。映画が衰退してテレビの時代になって、テレビが完全にテレビになって演出家が居なくなって、さてドラマを作ろうと思ったら叫ぶしかないという、演出の放棄だと思ってます。それがいつどの時点でこうなったのかというと、1996年あたりではないかと。他人のネタを使うことに、90年代前半は多少後ろめたさがあったと思うのですが、95年あたりから顔の皮膚組織が厚くなったようで。

『おたんこナース』のドラマ化を原作者が断ったら
吉田豪情報。

asahi.com(朝日新聞社):「脚本家名ない」作家協会が抗議 映画「アマルフィ」 – 映画 – 映画・音楽・芸能

あの組織の体質でしょうか。

自動車のデザインも昔からどこかの贋物が横行してますし。昨日みたAZ-1はもう作れないのかも。

おたんこナースのお仕事は、原案をもらってきて、立ち上げたことは評価すべきかもしれませんが、原作に断られたときの身の処し方としては、あんまり上手くはありませんね。

ナースの話を見てナースの話を作るよりも、ちょっと工夫すればまた違うものができたのに、当時のテレビマンはもう先にやることを決めてしまって、そこから原作に相談に行くのは変な話です。

マンガを読んでテレビドラマになるだろうと思うのは、今の時代当然なのでしょう。コンテもカットも筋も決ってますから、作るのは楽。それが面白くなるかはまた別のお話で、あれきっと、テレビの人たちはマンガの人を下に見てるのではないでしょうか。

原作に降られるという悪手は、きっとテレビの中のエライ人が「ドラマ化すると言えば原作はかならずなびくだろう」という思い込みがあったからで、そう思うのはテレビのほうがエライからという、曖昧な根拠です。たぶん中の人にとってテレビの偉さは明確なのでしょう。

テレビの偉さとは、そこに動いているお金の嵩で表現されますから、1995年あたりの景気が悪くなり始めた頃でも、金はあったわけです。

一方マンガの原作者もお金は在りますから、変なドラマ化を断るくらいの甲斐性がありまして、そこが、テレビの偉い人の想像の埒外にあった。最大の問題は、断られた後でも懲りずにドラマ化してしまった、そのテレビマンの熱意というか適当な感じが怖いですね。

ドラマをみていない私が22年経って、へんな話だなと覚えています。企業イメージも悪いし関わった人の印象もよくない。

同じコトが球団を持っているIT企業(楽天じゃないよ)による医療サイトのしくじりに良く似ています。お金があって傲慢になると、時代が変っても人間やることは一緒なのです。

たぶん今の若い子は22年後にこう思うのです。ああ、あの野球チームを持っている会社は、デジタル万引きのマネをしたぞと。

両社とも自力で物を作れないのに仕事として作っているフリをしなくてはならなくなったゆえの不始末。 出来ない物はできないと言えばいいし、出来ないところからはじめればいいのに、他人のなにかをかっぱらってきて出来るフリをしていては未来がありません。

たしかに高度経済成長のころの製品は海外製をマネして国内市場に投げれば儲かってましたから、あのころからマネだったのではありますが、いよいよマネが利かなくなったら楽しいとおもって新規にはじめればよいのに、まだどこかになにか落ちていないかと狙っているような人ならば、創造的な仕事ではなくてもっとその才能を生かしてサービス業に行くとか気持ちを切替えて頑張っていただきたいと願っております。