冷えた心

昨日の日記はふつうに書き忘れ。なにしていたのか記憶も曖昧。いささかの疲労。本日は時間があり鍋料理を作り安くなった青物野菜を沢山いただき、体力回復に養生しておりました。原因は寝不足。眠れない原因は心が空疎であること。

やろうと思っていることができない。そのうちヤリタカッタ訳を忘れてしまうのです。すると、自分という器には何も残らなくて空っぽのまま時間が過ぎます。空っぽが大人の証明ならば、充分大人になりました。

空っぽを埋める方法としましては、美術鑑賞であるとか、受け身の摂取に走りたくなり、中年以降はやたらと美術館巡りをはじめるのかもしれません。人生の先輩方は西洋美術とかお好きでしょう?若年版が刀剣乱舞の人たち。刀をみてなにか摂取するものがあるのです。男は趣味があればまだ救いがあります。飽きっぽいので、いま熱中する趣味もなくて、私はただボンヤリするばかり。

次の趣味のようなものは、わずかずつ見えてきましたが、それが具体的にやるべきことなのかまだわかりません。やりたいことにまだ実体がないからどこに転がるかは本人にもわかっておりません。いままでの趣味も言葉が先にあってはじめたわけではなく、勝手に体が動きはじめたから趣味になっただけ。

「勝手にはじめる」までの熱量が、年を取った分だけ余計に必要なのでしょうか。歳を取ると釜が冷たくなるのかもしれない。温度を上げるために大量の薪が必要になるのでしょう。心に響くというから、心の釜はきっと鉄製。錆びたり底が抜けたのかも。