2007年問題はないとは言わないやさしさ

2007年問題は起きないという仮説を立ててみよう。

7年前の2000年問題はなかった。だから今回の2007年問題も無い。団塊世代が退職しても困らない。だって地元の某大手企業の求人は時給1500円くらいまでの派遣社員の募集ばかりなのだ。1500円で技術は伝承できない。

地元には同級生がいるから人材の流れはなんとなく分かる。だが技術伝承のために人を雇う話を聞かない。状況証拠だけで断定するのは気が引けるが「時給1500円」は「継承すべき」相手に支払う金額ではない。ならば、そもそも「伝承すべき技術」が無いと考えるのが自然だろう。

あらゆる技術は失われる。たとえば、水晶ドクロの作り方は今もってよくわからない。当時の技法では作れない。水晶ドクロは作れないけれど、困ってはいない。NCマシニングでも3DCADでも、作ろうと思えば今の方法で作ればよいから困らない。

個別の事例で考えてみよう。たとえば◆警察官の大量退職◆

警察官が退職するから捜査能力や鑑識の技術が落ちるらしい。でも、泥棒とか犯罪者のほうも歳を取るわけで、団塊の世代の犯罪者が大量退職すれば犯罪者自体の数も減るので困らないのではないだろうか。

ああ、でも犯罪者に定年がないのか。

そもそも、技術は伝承されるべきだろうか?

苦労しなければ伝わらない技術は、なくなっても良いのではないか。新しい技術に取って代わるなら、新しい方法で作ればよい。新しい方法で作れないならそのとき作り方を考えねばよい。仮に技術があるとしても相対的に蓄積量が多いと言うだけで、なにも団塊の世代がすべての技術を持っているわけではない。だから気に病むことも無い。

水晶ドクロだって昔の方法で作る必要ない。だから昔の技術はいらないのである。

もし、水晶を骸骨方にする技術が必要なら継承されてるだろう。でも現実には必要が無いから、水晶ドクロ職人は現存しないのである。

結論を繰り返そう。

2007年問題はない。

だが表向き、2007年問題は「ある」と信じてあげよう。それがやさしさだ。

「仕事即ち人生」と思ってきたあの世代にとって、「2007年問題が無い」と、面と向って言うのは忍びない。「無い」と言ってしまったとたん、彼らの存在を否定することになるだろうから。だから、あっても無くても「あったことにしてあげる」のが人情だとおもう。

でも団塊がいなくなった業界から順に業績が上がったら笑うけどな。

私は笑う準備をしている。