大東亜野球

テレビを見てたら、社員旅行で研修をかねて那須に行く会社がでてきました。
フォレストアドベンチャーおおひら 栃木・バーベキューやクラフトもできるアウトドアパーク

ワイヤーを張った空中を歩く様子が映し出されました。あんなことするなら会社やめればいいのに。ときどき勘違いしたアレな会社が新入社員にサバイバル訓練を施します。そういう会社の社名を書き連ねたリストがHDDの中に入っていますが、倒産情報をみていると会社の残存率が低くてときどきリストを更新せねばなりません。

サバイバル訓練で士気を高めたりするのですが、どうしてあの手の会社は至近距離の武器を使った格闘術には見向きもせずに、集団での長距離移動を科して仲間同士助け合うことばかり推奨するのでしょうか。他社に勝つにはまず至近距離での打撃が最適です。長距離の補給など考える必要はありません。

スケートの羽生が怪我したまま競技を続けたことが問題になりました。日本のスポーツは、選手が苦しむ姿をみて楽しむものですから、もういっそローマの競技場をお借りしてピューリタン対ライオンみたいな試合をBSプレミアムで流せばよかろうかと。問題は、異教徒はなんとかなるけれどライオンがワシントン条約で守られている点です。高校野球も気候が冷涼な北海道のドーム球場でやればいいのに、夏の甲子園でやりたがるのです。そうしないと苦しまないから。もういっそ面倒ですから高校生の足に園芸用のブロックをつけて泳がせれば良いと思います。世間と主催する新聞社とテレビ局がタッグを組めば実現できるはず。私はそんなひどい中継はみたくありませんが、羽生が痛々しく滑る姿を見たい人たちにとってはどちらも一緒でしょう。いまだにニュース番組の後半にスポーツを入れているのが不思議でならないのですが、あれはだれもおかしいとは思わないのでしょうか。

苦しんだり努力する姿を善とするのは、きっと日本陸軍が発祥なのではないかと推測しています。みんな貧乏が悪いのです。陸軍の丸刈りはそのまま高校野球に引き継がれました。野球という競技は戦前は大学野球が主で、当時、旧制の大学では同世代人口の15パーセントしか進学しませんでした。だからエリートのやる遊びだったのです。当時は社会システムが違いますから、ずば抜けた金持ちがいたのです。

戦後、野球が庶民の娯楽まで降りてきて高校野球が始まりました。新聞社の肝いりです。戦後、引き上げてきた軍人のおかげでカレーが庶民の口にはいるようになりました。と、同時に軍隊式の戒律も庶民に降りてきました。平和になっても軍人は威張りたいのです。威張るには威張れる立場になればよくて、教師というのがその受け入れ先だったのでしょう。結果、野球は丸刈りとなります。

やってることは軍隊ごっこです。南方の教訓から水を飲むなと言われたり、スポーツ医学とは縁遠い我慢を強いられます。すべては南方でひどい目にあった経験が悪いんです。組織の維持には上下関係の堅持が必要となります。スポーツ理論なんてものは関係ないのです。すべては伝統とその場の思いつきと組織の保持が最重要となります。

茨城の教育も長いこと軍隊仕込みでした。私が学生だった四半世紀前も共同責任理論などが幅を利かせていました。早朝当番で掃除をする仕組みがありました。だれか一人が遅刻すると、全員がもう一週間つづけて班ごと掃除当番が続きます。そこに納得させる理屈はなくて、単にそうしたいからしているのです。社会生活を営む上で大切なことなのかもしれませんが、凍ったアスファルトを箒で掃きながら、くだらないことだなと思っていました。教員に対する不信感や教育行政の底の浅さに気がついたのはこのころかもしれません。掃除当番は延々に続くかと思われましたが、優しい教諭のアリガタしご配慮なのか、どこかの保護者がクレームを入れかのか、いつの間にかうやむやにされてしまいました。掃除当番がイヤなうえに、こういううやむやなごまかされかたが大嫌いなのです。そして、嫌なことは案外よく覚えているものです。

来期の楽天のO監督は私よりすこし上の世代で、大洗出身で水戸の中学から高校に進学して野球一筋に活躍した選手です。西武に入団し、コーチとして大成して監督まで上り詰めました。

受けている教育が、あのころの水戸の共同責任理論に基づくものです。体育会の彼が進学した高校は常総学院ができるまで野球の名門でした。そう。常総学院さえなければ。当然、あの頃ですから上下関係は厳しい。立ち止まって挨拶をするなんてのは、当時の名残でしょう。キクチユウセーをぶん殴った理由はしりませんけど、Vナイン時代は巨人軍もコーチや監督が選手をぶん殴るのは当たり前ですから、それをよいと思って育った地方の野球の関係者もやることは一緒です。その後進んだ西武も非常に若手の選手の育成に長けていました、いまでも有名なK選手を育てたくらいです。

だから、まあ、夏まで持つかなと。

本人がかわっていなくなも、新人で入ってくる人間が変ってしまえば通用しません。組織というのが会社でも30年一区切りなのは、伝統がだいたいそのあたりで制度疲労を起こして途絶えるからなのでしょう。

東京新聞:大学、進む都心回帰 東京電機大 千葉から都内へ:社会(TOKYO Web)
電気大ってずっと秋葉原にあるとばかり。また印西なんてずいぶん遠くに行ったものです。結局、少子化で実質人数が半分になってしまい、印西でやる意味がなくなってもどるそうです。こと私の世代は大学が地方に進出した時代に学生生活をすごしました。都心にキャンパスがある大学は3-4年次に都心に通い、1-2年の教養学部が埼玉とか八王子とか千葉にあるような、そんな仕組みでした。生徒の生活が分断されてしまいます。4年間同じところに住まうなら、それなりの文化も育ちますが校舎の容積不足で学舎が変る意味はありません。

L大学とG大学に分けるとかなんとか言ってますが、観念がよくても実行するときには別のものになってしまいますから、お題目だけとなえてもなんの解決にもなりません。地方国立大が全部理系になって、CNCマシーンの使い方を学んでも卒業する頃には3Dプリンタになっていたり光学造形になっていたら誰が責任をとるのでしょうか。

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中央大は都心の土地を売り払い八王子に骨を埋めるそうです。電車の専用線もあるしモノレールもありますから、そういう作戦なのでしょう。茨城大学の人文学部はまたずいぶんへんぴな場所にあります。こちらはもともと水戸第二連隊の駐屯地です。国営の土地の国立大学への転用なので、理に適っては居ますがもうちょっと益よりにするとか、交通の便の良さそうな場所にしてあげればいいのにと毎回思います。金沢大学は移転する前は金沢城の丸の内にあったそうです。イバダイも移転すればいいのに。
水戸第二連隊正門
金沢城 – Wikipedia