桜田門外の変で使われたハンドガンは五丁

桜田門外の変で使ったコルト1851ネイビーコピー。トリガーガードのデザインが水戸のガンスミスの手によりオリジナルより丸みを帯びた形になっていました。グリップ周辺の部品は型で作りやすい銀。サイドパネルはうすくブルーイングされたスチール製。トリガーガードは唯一オリジナルと形がちがいます。おそらくは鍛冶屋がふだんの仕事の延長で好きなサイズでつくったのです。

鉄砲に刻んであった銘は2つ。ひとつは「中澤晃敬」で不明。もうひとりは彫工の「鎌田壽次」で人物はある程度分るらしい。当時最先端の技術である雷管式のリボルバー製造は高度な機密です。中澤さんの名前が資料にのこっていないのは理由があるはず。

桜田門外の変 井伊大老を襲撃した浪士が所持していた拳銃を古武器研究家が公開:Yubarimelonの気ままな歴史散歩:So-netブログ
井伊大老を撃ったのは一発。使った銃は5丁。ということは、水戸藩内であれば城東のいまは田んぼと市民農園にあった大砲製造所で作ったか。または江戸のどこかでつくったのでしょう。たまに博物館で江戸時代の根付や帯留めをみると、いま人の手で作れないくらいに精密な仕事をしています。江戸の鍛冶屋と彫金の技術は侮る事なかれ、いまよりも手先が器用だったのかもしれません。どこかの宗教団体が作りそこねたカラシニコフも水戸藩なら作れたかもしれません。

五町矢場遺跡碑 常陸野散策… いしぶみは何処/ウェブリブログ
昔はここで鉄砲と大砲をつくって射撃練習をしていたそうです。なんてことない河原なのですけどね。

スポーツガンネット|特集
国友氏の流れをくむ鉄砲鍛冶。笠間はいまも鉄砲町があります。水戸の鉄砲町は金町の図書館の近くで、日本原子力開発機構鉄砲町住宅とか財務局水戸鉄砲町寮の形で名残りがあります。たいていの城下街で見つかる地名です。

幕末の水戸藩は水戸学で思想では国を引っ張りましたが明治初期まで内乱がつづき1万人近くが水戸藩内の内紛で亡くなっています。大半が戦闘か処刑。明治維新からこっちで有能な政治家があまりでてこないことや、水戸弁がやたらと攻撃的な言葉であるのはどうもこのころの内紛が百何十年と住んでいる人の気質に引き継がれているのではなかとおもわれます。私は子供の頃から聞いているのでなんとも思わないのですが、他所から来た人が水戸市民の会話を聞くと喧嘩をしているように聞こえるそうです。

いまになって市が観光都市として水戸城三の丸から二の丸まで整備を始めましたけれど残念なことに歴史のなにかは残っていません。斉昭が神社仏閣が嫌いで廃仏毀釈を進めました。歴史的な建造物は江戸までの大火、幕末内戦で破壊されています。ふだんから、大火で焼かれ、戦災で焼かれればなにものこらないのですけれど。偕楽園にある好文邸は落雷でいちど消失。あるのは処刑場の跡ばかり。

水戸に住んでいる私がいうのも変ですが、人と人の意見を調整して政治をうまく動かそうなんて考える人は少ない土地柄かもしれないですね。いい人はあのとき死んじゃったのかもしれないし住みにくいとおもう人は逃げてしまいます。私も住んでて居心地の良さはあまり感じません。やたら道路がぼこぼこ凹んでいるので運転もサイクリングもたのしくありません。そんな水戸ですが、よろしくね。

がんばれゴエモン 天狗党の逆襲