今週末は寝なかった

日曜は寝て過ごすことが多かったのですが今日はおきてました。

郵便局に本を受け取りに行って、ついでに本屋で本を購入。日曜日なので、女子高の体育会が午前の部活を終えて帰宅する時間帯。ボーイッシュな女子高生がたくさんいました。腕相撲をしたらたぶん負けます。腕っぷしには自信がありません。

買う本はどんどん古くなっていきます。つぎはもう和本で、その手前くらいにおります。

夏の間読書をしようと本を買いました。数学と英語翻訳と、国文学で、数学の本は読めるかなと期待したのですけれど触ってません。ふしぎなものです。英語もそこまで興味がない分野ではありますが、わたしの好きな文体は、戦後にかけて整った翻訳小説に由来することが分かりました。翻訳周辺のことをぽつぽつと読んでいます。

国文学は、戦中戦後の文学です。基本、小説はぜんぜん読んでません。この小説嫌いはどこからくるのでしょう?

子どもの時からあまり好まず、そのままです。実際読んではいますが、国文学ときいて皆さん思い付くのはキホン恋愛の話です。私はあまり好みません。

年のせいなのか、読書傾向の結果なのかわかりませんが、特に現在、フィクションの作り物がダメになってしまいました。

おそらく、映画のつくりかたとか、小説の書き方の本を読んだ結果、すべては演出であるとわかってしまって、その演出に素直に乗れないことが原因です。写真もちょっとかじってみると、たとえばビールのポスターひとつとっても光の当て方や距離など技術が詰まっているとわかります。結果、写真そのものを見られなくなり、写真につぎ込んだ技術が気になってしまいます。なのできれいな女性が写っていても技術と補正に気をとられて鑑賞ができなくなりました。

まあ昔から自転車と女子が写っていると自転車を見てしまうので、それが悪化しただけかもしれません。イラストで銃を持っている絵をみると、銃のほうに気を取られてぜんたいが見えなくなりますよね?世の中の人ってだいたい、そうなりますよね?

あと文章。いい文章は読まずに眺めていられます。これ、特殊な気がしてきました。本を開いてぼーっとみてうっとりする本ってありますよね?無いのかなあ。無意識が解釈して読んでいるので目で追わなくてもいい文章はいい文章と感じられるのですが、これはそのケがない人にむけて説明が難儀なので言わないことにしましょう。

ぼーっとうっとり読書はできるようになるとたのしいけれど、反動で読めない文章は遠目にも読めなくなります。これは最初からダメだなとわかるのです。文章にかぎらず、映画も最初の数カットでダメなことはわかります。きっと情報量が多く拾えているのだと思います。あんまり得しませんけどね。

危ない人を見分けるときに、その人についている情報を読み取ろうとしますから拾える人は拾えるのでしょう。立ち居振る舞いは結構、その人の地金がでます。お酒を飲まさなくても地はでます。私など普段から酔っているようなものですから、飲んでもあまり変わりません。飲んで変わる人は社会性をまとっていて、その衣の下が出てきて変わったように見えるだけです。衣が薄い場合、着衣未使用型の人物に酒をのませても、そのままだからきっと面白くはなりません。わたしはたぶん薄着です。