もう四十なので、ハタチの子と高校生の区別が付かない。
もともと人間に興味が薄い。
自我が備わる人間と、自我を必要としない人間に大まかに別れる。私は自我のある人と付き合いがち。人間の中身を少しばかり気にして生きてます。
「アイデンティティ」は「自我」と翻訳すれば十分ではないか。自己同一性というのはなんとも意味が分からない。おそらく心理学か哲学の用語がこなれておらず、同一性など謎の言葉に直されているのだろう。
一人で楽しく遊べるようになると、自我が育つのかもしれない。
情報の多い都会に生まれ育つと、もしかすると、自我が育つ時間が生まれないかもしれない。田舎の、僻地みたいな場所に育つと追い詰められて発芽するのが自我なのではないか。
家の本を並べてみると、北海道人の本が多い。北海道の人はあんまりにも自然が多すぎてうんざりして自我が育つのではないか。べつに九州だって育つだろうけど、北陸とか東北とかうんざりする気候で育つのと、南方の温暖な気候で育つのでは人間の種類がかわるのではないか。
かなりこじつけだけど。
自我の有無はどうやって見分ければよいのか。夏、みんなが海に行くから海に入るのは自我ではない。熱くてやってられないと思って海に入るのは自我であり、欲望である。
欲深い人には自我がある。欲しいと判断する基準が、内側にあると自我があると言えよう。
反対側にある、自我がないとはどんな状態なのか。
みんなが行くから私もいくってタイプがそれかもしれない。こんなことを言うと怒られるのかもしれないが、ラーメン屋に並んでいる人をみても自我を感じない。
食い物に並ぶのは粋じゃないとおもうから、私が思う他人というのは、自我があってなるべくなら粋であって欲しい。
凄絶な生還、うつ病になってよかった
小石川養生所の榊原伊織先生は名前が無我であるけれど、自我があるから「うつ」になる。
世の中にはあんまり自我がなさ過ぎて「うつ」にならない人がいるのかもしれない。