昭和61年の水害


昭和61年の水害のときは子供だったので、あまり周囲の様子は理解しておりません。

当時は百里基地の救難機が双発のバートル
V-107 – Wikipedia

いま水戸市の撮った動画をみると那珂川の北、左岸側が結構な被害です。たしかこのときは県南部の小貝川の堤防が切れてひどい状況になったはず。このあと何度か水害がありましたけれどいつもいく釣り場にいったら自転車道路が水没していて怖くなって家に帰ってきました。

心配になって見に行くと、ほんと危ないです。

当時といまの違いは、那珂川の勝田側、いまは水戸ホーリーホックの練習場がある場所にリバーサイドホテルが建っています。このホテルがあるために堤防がそこだけ低く、このあと堤防を作るためにホテルが移転することになります。

ホームセンタースイフは、現在会社が存在しません。2000年代に入って廃業となりました。下り坂の下の方にお店があります。水郡線と市民プールに挟まれています。

現在は堤防が補強され、このときとおなじ降雨量でも堤防は切れないはずです。ただ、那珂川が補強されたため、支流である涸沼側下流部分に水が流れ込み、涸沼の水位がなかなかへらなくて溢れることになります。あちらをたてるとコチラがたちません。

子供でしたので実害はそんなにないといえばないのですが、あるといえばあります。

それは豚の死骸。那珂川の上流でおそらく豚舎が流されたのでしょう。その遺骸が釣り場である支流の桜川に流れ込んでたまってました。そのため定期的に上流から豚の各部位が流れてくると言うちょっとしたホラー状態で魚釣りをしてました。ふつうは釣りのほうを諦めるのですけれど、子供なのでそのへんは気にしません。釣り糸に引っかかると面倒なので上から流れてくるたびに避けてました。

あとはお金持ちの家から錦鯉が流れ出て、悠然と泳いでいました。一匹数十万だから釣ってやろうと悪いオジサンたちが餌を鼻先におろしてみたけれど、ふだんよっぽど高級な餌を食っていたみたいで、私たちが使うような安い釣り餌には見向きもしません。

いまなら錦鯉用の高級なエサをグルテンの練り餌に混ぜ込んでつりますね。だれが持ち主かわからないので返す方法が思いつきませんけど。あとつったら釣ったで保存する方法がない。

投網で掛かるんじゃないかと友達と噂をしていましたが、細い川でテトラポッドに引っかかるのでたぶん投網は無理。

このとき持ちこたえた城東地区にかかる寿橋は、そのあとたしか平成に入ってからのべつの水害で耐えきれず明け方にドカンと音を残して崩落しています。昭和と平成の違いは材木です。平成にはいってよっぽど山があれたのでしょう。上流から杉の丸太が山ほどながれてきてそれが古い木造の橋に引っかかって壊れてしまいました。いまは新寿橋という立派で水害と無縁の橋ができました。

ただ、東日本大震災のあとどこかにヒビが入ったのか寿橋の堤防と交差する部分の結構高い場所に水が上がってました。歩道と車道の境にある車止めの鉄柱を挿す直径12センチほどの穴から水が溢れていました。平地ですから毛細管現象ではないかと。

下流の勝倉あたりの堤防は大地震でいったん崩れたのを作り直しています。そのため、水害の可能性はじゅんぐりに補強されています。

関東農政局/4. 近代農業の発展 【農と歴史】

那珂川 – Wikipedia

近年行われた那珂川下流部の治水事業の状況