水戸城瓦塀

水戸城の瓦塀を見て参りました。瓦の隙間に粘度を詰めて構築した壁。時々鉄砲の玉が出てきます。戊辰戦争でもないし戦国時代の闘いのあとでもなく、幕末の内紛のときの玉。水戸藩の内紛は弘道館戦争と呼びます。

藩校の弘道館と、大手門までの距離は橋を挟んで100メートル程しかありません。

当時の火縄銃の最大飛距離は100メートル程と言われています。先日松本城の火縄銃保存会の人が持ってた防御用のロングモデル火縄銃「狭間筒」は50メートルでマンターゲットの中で特定の部位が狙えると仰ってました。ヘッドショットも夢じゃない。「狭間筒」は飛距離も200-300メートルはあるので、狙ったとおりに当てられる有効程距離はとても長くなります。大手門からまっすぐ弘道館の壁まで届くことでしょう。

大手門の前は橋がかかっています。左右に土塁とがあり現在は車道になっている深い谷を挟んでますからきっと戦闘は降着したでしょう。

攻めの兵力は一般的に守りの三倍必要と言われています。会津戦争から敗走して帰ってきた諸生党が、陣地を固めた城の天狗党を攻めて、多少戦闘慣れしていたとしても防御陣地を落すのは苦労したに違いありません。

今の水府橋の交差点と、丸井のある水戸駅までの500メートルを長いディフェンスラインととらえた場合、城にいる天狗党側は常に高い位置から撃てます。それに引き替え諸生派は常に下からの撃ち上げ。移動部隊ですから兵力は少なく、橋を使った一点突破で城門を打ち破るのは難しい。

当時の性能の良くない火縄銃で撃ち合う限り、城内に武器と食糧かある天狗党のほうが長期戦に持ち込む余裕のあるぶんだけ有利。守備が有利な理由はいくつかありますが、守備用の「狭間筒」があったと仮定しましょう。守る側は重い長距離狙撃用の火縄銃が使えますが、歩兵はふつうの火縄銃しか担げませんから、歩兵用の軽い火縄銃しかない。この射程距離の差は大きい。

Vol. 386 茨城県の医師不足を考える: なぜ、水戸市に医学部がないのか? | MRIC by 医療ガバナンス学会

弘道館(水戸市) | 観光いばらき(茨城県の観光情報ポータルサイト)