アリとキリギリス

最近アリとキリギリスの話が気になる。

アリは一生懸命働いて、キリギリスは歌っている、だから冬になるとキリギリスは死んでしまい、アリさんたちは暖かい巣の中で長生きできましたとさ、だからアリさんのように一生懸命働きましょうという、勤労精神訓話が一般的に知られています。

あれ、おかしくないか?疑問は2点。

アリって、最後キリギリスを食べるでしょ。
たぶん、アリさんは歌を歌うキリギリスさんをみて、大人なら20人前の食材だな、なんて築地の魚河岸でマグロを見る料亭の板前のごとく、虎視眈々とキリギリスを狙っているのです。冬になって弱ったところで噛み付いて、餌にするんです。その分の描写がない。

もう一点。キリギリスはあれで良いんだと。
あの話に出てくるアリは女王アリではなく、働きアリである。あいつら、生殖能力がない。働きアリだけでは増えない。それは生物として楽しいのだろうか?玉を抜かれた宮廷の宦官か、奴隷のようにこき使われているのが働きアリさんである。しかもあいつら、何の疑問も抱いていない。

以上の2点を踏まえると、アリとキリギリスの話が、単純に働くことを肯定する話とは思えなくなる。

こき使われながら、生殖能力のあるキリギリスが死ぬのを虎視眈々と待ちながら生活する、姑息なアリを肯定しているが、それは子供向けの話としてまともなことだろうか?むりろ、死ぬときは死ぬと思って歌っているキリギリスのほうが生物として正しいように思う。生殖行動で歌っているわけだし。

その部分の指摘はないし、餓鬼もきがつかねえだろ。携帯電話会社とか、エイベックスと、ラックスとかに小銭を永遠と巻き上げられ気がつかないバカな若者を増殖させるための、偽りの童話のようにおもう。

国家というものも、バカを増殖させたいんじゃないかなとおもう。インフラを民間に開放せずに独占状態を誇る旧国営企業とか、そーゆーところに疑問を持つ人間よりも、おとなしく税金を納めるアリさん(生殖能力ナシ)が増殖したほうが、国家は潤うわけです。そのような意図のある話がまかり通る社会がおかしいと思うのですが、アリさんはそこに気がつかないのでしょう。だからどうだってもんですが、俺が子供にあの童話を読んで聞かせるときは、この部分の描写もキチンと伝えておこうとおもう。やな餓鬼が育つぜ。