罰してみた

作文教室

参考人失神、実況見分せず、調書を“作文” 【美濃加茂市長収賄疑惑】でまたも当局が暴走 | ビジネスジャーナル
ガストで賄賂ってのが。最初からシナリオに無理がありませんか。スダレのある個室風居酒屋くらいあるでしょう。美濃加茂市が何県か知りませんけど、もうちょっとこう、賄賂ってのは畳の部屋で鴨居に槍がおいてある屋敷みたいな場所で受け渡しましょうよ。

検察官が取り調べをするときに調書を取ります。調書は質問にたいしての答えです。犯罪を犯した人がどうしてそれをしたのか。わかりやすく書くことで合理的な裁判結果が生まれます。調書は文学ではありませんから心の声を丁寧に文字に起こしているわけではありません。

ビジュアルだけ見ると若市長が美少年なので取り合いでもした?の図しか思いつきません。2000年代も10年をすぎると「疑わしきは罰せず」から「疑わしいから調べてみよう」になり「罰したいから罰してみた」に変ってきたように感じます。

調書を作文と揶揄する理由

その結果、本当の理由よりも裁判所が理解しやすい定型文が調書に書かれるようになります。裁判でなんと答えればこのくらいの量刑になるだろうと知っているので、裁判官の心証にとどく言葉を使いたくなります。結果、どこかで聞いたことがあるような「カっとなって○○した」などという定型文ができあがります。

調書は点数が付く

裁判には人の人生がかかっていますから独自の表現はできません。硬い文章となります。硬質な文書を作ることと、人間関係や背景を正確に捉えることは別なため能力のない取調官が調書を作ると見当違いの結果を生みます。その結果、量刑が市民感覚と合わなくなり裁判員制度を導入てみました。結局量刑の判断が上級裁判所のお口に合わないという理由で差し戻したりやり直しを命じることが多々あります。そんなに気にくわないなら最初から裁判員制度などやらなければいいのにね。

検察官になるまでの道のりで試験が多すぎて、試験にうかるにはこうすべきとだと行動を規定しすぎて、結果物事の本質よりも試験(この場合裁判)に通りやすい作文を書いてしまうことが問題ではないでしょうか。

昔からそうなのか、いまだけこうなのかは分りませんが、試験に受かるための優秀さと本質をみたうえで仕事のできる優秀さは別だと思うのです。いまは試験に受かるために相当努力した人が「優秀」あつかいになっていますけれど私と同世代が働き盛りですからおもうに品質は相当怪しいのではないかなと。

残念ながら冤罪はここに書けないくらい沢山あるよ

大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件 – Wikipedia
証拠のフロッピーを安易に改竄したらばれたでござるの巻。

作文があらぬ方向に向う事件。このとき捕まった本人とは別に監督責任のある上司がでてきて「取り調べを可視化してくれ、録画してくれ」と懇願した点が面白いですね。普段取り調べる側の人ですから可視化は嫌うはずですが、イザ自分がその身になるとイヤみたい。そのなんというか、骨のないところがステキな事件でした。

そして今日も冤罪は起きる

学生ってのはヒマです。刑法犯の構成要件がどうのこうのいうひとも周りにおりましたが、私はもっぱら冤罪と昭和事件史ばっかり追っていました。なにせ図書館の資料室には戦後の新聞三紙だか四紙の縮尺版が並んでいましたので事件の起きたとき冤罪が起きた直後と、冤罪と決まったあとの報道の違いの新聞を見比べるのを楽しみにしていました。社会正義はしゃらくさくてずいぶん脆いものです。

目の前にあるなんとなく正しそうな正義の棒を振り回すのは楽しいのかもしれません。しかし本質として正しいことと目の前の正しいことは時としてずれることがあります。正義を振り回す人たちがどこをどう錯誤しているのかを考えることは私にとって雑誌のクロスワードパズルを解くのと同じで面白いので、そういう変なものを眺めて笑ったり悲しんだりしています。「そんなのは変だよ」と言われることが多々ありますが、そういう人にお会いするとその方の振り回している棒の形が面白いので話に付き合ったりしますが、最初に見切れる程度の棒術ですと面白ろ味に欠けます。

カワサキ国の事件も警察の情報がマスコミを通じてすこしずつリークされています。「被害者が慕われているのが気に入らなかった」なんて証言もでてますけれど、それは調べている人の思う犯行動機かもしれないのでこの時期に警察からでてくる情報は疑って眺めるべきです。

人はわけのわからぬ事件が起きると犯人捜しをします。具体的に人をつるし上げる場合もありますし、原因を探してそれを犯人とすることもあります。安心感が得られるならば人は偽りの罪人を平気で火あぶりにできます。

訳の分らない事件

頭のいかれた人の考え方なんて分らないのだから考えても分らないのです。同じように頭がいかれていれば共感するなにかがあるかもしれませんが、ふつうは分らないのです。