御三家なのに幕府に反対する水戸

資料を当たり直すのが面倒くさいので、メモ的に書きます。

いわき平に、新政府軍が上陸したときに攻めなかったと言う話が残っています。私たちは新政府軍が上陸して会津の城が落ちたことを知っています。だからいわき平で敵をたたいておけば、会津がもうちょっとがんばれたかもしれない、どうして上陸という、新政府軍がいちばん弱い局面で攻めこまなかったのか疑問でした。

「坂下門外の変」について書いてある本を読みますると、水戸浪士6名による「平」の殿様襲撃事件というものに行き当たりました。

桜田門外の変で、水戸浪士十三名が切り込んで、上手い具合に井伊直弼を倒しました。慌ててたので首を取り違えたけれど、目的遂行できてやったねと。

直弼の役職をだれかが次がねばなりません。それが「平」の殿様。それで、水戸浪士はまた切りに行きました。さすがに向こうも二度目ですから、警備を厚くしていたのに、殿様は背中を切られます。武士として恥ずかしい怪我でしたから、役も降りるしいいことナシ。

そこで、だれかが思ったのでしょう。新政府軍を攻撃しないで上陸させてやろうと。

ではなぜ、新政府軍に味方したのか。

井伊直弼の跡を継いで、水戸浪士に切られてしまうくらいに平だけは新政府よりだったのかもしれない。

水戸の立ち位置がわけわからないのは、御三家だから。御三家なら幕府よりだとおもうでしょうけれど、水戸はそれまでの幕府があんまり好きじゃなくて、江戸幕府に刃向かってまして、開国を進める幕府に対して攘夷を唱えます。

奥羽越列藩同盟は攘夷の人たちです。でも平は開国派ならば、新政府軍を観て見ぬふりをするかもしれません。真実はわからない。見当違いの説かもしれませんけど、眠きのを我慢して残して置きます。