誰かの基準はみんなの基準

全体的に物事に興味が無くなるのは、年齢のせいなのだろうか。暑くなると読書がしにくく、読める範囲が狭まるので、本屋に行かない今日この頃家の棚から昔読んだ本を引っ張り出して読み返しています。棚に残してある本は、おそらくいま残っている量の四-五倍の本の山を処分したうえで残していますから、急にいま書店で本を一冊買ってくるよりも棚を見たほうが面白い本が見つかります。

棚に収めたときの私と、いまの私は中身が変質していますから昔は面白かったけれど、今読むとどうだろうという本も多少まざっています。実際には、昔読んだけれど内容を取り切れなかった本が多く、再読というのは案外重要なのかもしれません。

涼しくなったら、また気分も変り本をよむかもしれません。いまは暑さをどうやってやり過ごすかばかり考えています。

中断しているチョッキ作りのお裁縫は、できあがったベストをコンパクトに纏める方法が思いつかないまま作る予定だけ継続中。なんとなく土台は固まった感じ。具体的にどう積み上げるかまでは決らず。ウエストのパーツを軍装品から取って、肩のサポートの特殊素材を育児用品から流用して、ぐるぐると素案を考えています。ぐるぐるが停まるまでもうちょっと時間がかかりそう。

話を読書にもどしますと、現在読みたい本はなくて、観たい映画は何本かあります。だたいいR15+は、良い映画。あれは子供のウチに見ておいたほうがいい。大人がへんな防御壁を築いてみせないのも、教育を商売にしている人には意味があるのかもしれませんが、子供は見ちゃえばいいのに。

守ってくれる壁とか、壁を作る人に一貫性がないこととか、そういうことに気が付くには小学生のうちにR15+は越えよう。そういう子供だった私は、大人になったいまも美術館の前に裸婦像があるのが不思議でたまりません。あれ、だって裸でしょう?コンビニで規制してる雑誌と何が違うのか。

芸術とわいせつの線引きは、保守系の高そうなスーツを着ている政治家(だいたい二代目)であるとか、高校時代に将来を教員に決めるような人の思う正義の種類の問題で、言い換えれば趣味の問題。

美術館やら駅前の裸婦像を明日の朝美少女フィギアにすり替えたらきっと怒られるのだけれど、怒る理由に正当性はなくて、写真で言えば土門拳の写真は良くてアラーキーのはダメって言うのと同じですから、そこの好き嫌いは趣味の差じゃありませんか。どこかにいるらしいしっかりした大人の意見で善し悪しが決りますので、絶対的ななにか確信があってやっているわけではありません。

私が学園を作るような政治の力をもった暁には、美術館の展示物を自由にいじります。きっと怒られるものばかり並べる予定です。あまりにヒドイのでここには書きませんけど、美術や芸術とそれ以外を別ける線は、知らない誰かの都合でテキトーに決っているので、いちいち気にすることは無いと思います。