手になじんだ道具として

映画と小説のような、長いものが見られなくなりました。

心の余裕がない。

動画はyoutube。できるだけ短い作品が良いですね。2分あって落ちが後ろにあると、まあ飛ばして落ちだけみてます。待てる時間は15秒位かも。

映画の2時間、テレビの10分、できのわるいコマーシャルに付き合えません。

写真に目が慣れてきたのか、写真の鑑賞が楽しくなりました。以前楽しくなかったのはきっと情報が拾えなかったからでしょうか。写真に対して目が効く、写真の中に収められたカメラマンの意図なり技術が読めるようになりますと、初めて面白くなります。

画像は動画から写真に。同時進行で文章も、長い散文や小説から俳句や詩に移行しました。もともと評論文好きなもので、詩論が楽しく読めてしまいました。あと、たぶんわたしは小説はあまり好きではない。小学生の時に「(貴方は小説を読まないのだからあえて)読みなさい」と指導されましたが、そのくらい小説が苦手です。

散文、小説よりも詩は個人が濃厚にでるので、相性の合う合わないが極端になりますけれど、合えばだいたい面白く読めます。それは書き手が100名1000名いても、独りいれば充分。

わたしが好む詩人は宮沢賢治より室生犀星。戦後の同人誌「荒地」や「櫂」のあたりにちらほら。現在の詩人までたどり着いてません。なかなか多様な世界です。

小説同様共産系の書き手がわりと居ますけれど、この系統はあまり好みではない。党に破門された人のほうが面白い作品を残してますが、ちょっぴりくどい人たちです。ひとつの真理を信じてしまった人よりも、迷いながら行きた人たちのほうが断然面白いので、だいたい飲んだくれか闇のある人。

唐突ですがエレファントカシマシの宮沢さんは、ぜんぜん興味が持てませんでした。しかし、急に曲を聞くようになりました。

言葉なり表現を、わたしが拾えるようになったから。

18(最終回)・荒川洋治さん | 文の文 – 楽天ブログ

ずいぶん長いこと「詩なんて読まないだろう」と信じてました。

わたし自体が変化しました。いまのわたしたがら、詩が読めます。どこがどう変わったのかはわかりませんけど。

言葉というものは詩に限らず日常で使うものですから、適切な言葉を使えると気分が良いのです。それは、手になじんだ包丁でキャベツの千切りを作ることや、使い慣れたカメラで思ったような写真が撮れることに通じます。