待っている?待ってない!

お金があるし、CGの技術が発達したのに、映画がコケルのはなぜでしょう。アクションシーンにお金がかかるからドラマシーンが劣化するなんて信じられない。おおざっぱに昭和と平成にわけます。映画は昭和のほうが出来が良かった。映画が斜陽産業になったときに、演出家志望の若者がタツノコプロに入って映画としてアニメを作った。それがキャシャーンであり、破裏拳ポリマーでありガッチャマンだったわけです。

あれから35年たって、いまガッチャマンを作って失敗する理由がわかりません。CGの技術がこれだけ発展して、体のフチが合成で青いぎざぎざにならない時代なのに。ずいぶん豊かになって映画に回るお金も増えたのに。フィルムと違ってビデオは取り直しも簡単です。映像の編集だって簡単。

映像機材の発展に伴い、俳優の演技の質も比例して良くなっているのですから、観たい映画ばかりになる予定が、観たくないのばかり増えるのはなぜなのでしょう。国の政策かなにかですか。敵国の工作活動の一環ですか?

邦画が失敗している場所を想像すると、俳優の選び方がまず失敗。失敗というより、演技が出来るかどうかで配役を決めてないことがすごく不思議です。撮る方も2000年代は演出が出来なくても映画監督になってて、一体何を基準にその人が主役でその人が監督なのか分らないことが多々ありました。監督と俳優は百歩譲りましょう。大人にはいろいろ都合があるのです。最悪にマズイのはシナリオですね。シナリオさえ何とかなれば、監督がぼんやりさんでも主役が棒でも何とかなります。なのに映画もアニメもドラマも、シナリオが極めて劣化しているのはなぜなんでしょう。だってちょっとした地方都市ではシナリオ講座が開設され、35年前に比べて当時の何十倍も本は出版されているのです。それなのに邦画シナリオが35年前のアニメに劣る理由がわかりません。

予算の都合でシナリオに金が回らないのかもしれません。シナリオライターを複数人使えないのはマズイ傾向です。邦画全盛の頃は旅館を貸し切ってシナリオを含めた制作演出チームがアタマをひねって脚本を練るなんて贅沢な作り方をしてたのに。日本映画は映画斜陽のときに一度死んでるので、そのころの経験があるシナリオライターはみんな引退してて、伝統はほそぼそとしか繋がっていません。そう考えないと、いまのひどさは説明ができません。

タツノコのガッチャマンは子供に分るように敵の意図とガッチャマンが戦う理由を説明しています。そのうえで30分に満たない尺で話を展開し、ドラマを作ってスペクターのメカに乗り込んでジュンがパンチラしてジョーさんが苛ついてメカは思う存分活躍したうえで最後火の鳥になってカタルシスを得るのです。実に中身を詰め込んだアニメシリーズでした。日本映画の本流はタツノコのガッチャマンが繋ぎました。いまの邦画よりも当時のタツノコアニメのほうが日本映画的でした。

シナリオをケチるとひとりの視点で映画が描くことになります。監督の、「俺の考えたガッチャマン」がそのまま生み出され、シナリオの矛盾が解消されないまま話が展開し、予算の分配の都合で適当にCGを使い、どこからか連れてきた俳優なのかタレントでお茶を濁すようなアクションを描いてうまく予算内に収めるのが今の邦画の作り方です。予算内で効果的に映画を作るような作り方をすれば、キャシャーンもヤマトもガッチャマンも映画の品質に届くわけがありません。

実写リメイクは別に好きにつくればよいのですが、できあがった映画が、私らのこどもの頃観ていた30分アニメに負けていることが問題です。

35年前のアニメに負ける理由は沢山あります。理由はそのうち。

ゴッドフェニックス火の鳥バージョン