日本で個人で居ることについて

某待合室にいくと雑誌が置いてあって、読める本がサンデー毎日しかありません。

メンズ雑誌はグラフ誌でファッション特集。仕方ないのでサンデー毎日。国立大学の合格した高校のリストが載っていました。水戸一は地元にのこらず東北大。土浦一は順当に筑波大。みんな遠くにいくのはイヤみたい。東大は良く観る名前の学校から大量に入ってまして、多様性とは無縁の世界です。

純粋培養で似たような人を集めすぎるのもよくないのではないかと心配になりますが、それは本人たちの選んだ道ですから外野から何か言うこともありますまい。

私の母校は地元の学校に地味に大量に送り込んでいて、なるほど特徴のない普通高校はふつうにそうなるのだなと。ふつうの人たちは普通に生きているので普通です。

唐突ですが、明治維新後の日本に個人の人格が必要かどうかという議論があります。

人格というものが、はたしてあるのか。日本人というものにその人格は備わっているのか?近代市民社会で市民を構成する個人に、西洋の考える「個人」があるのか。

ようは個性なり個人の尊厳というものが、急激に発達した日本で育ったのかどうか。棚ぼた的民主主義がうまく機能しないのは「個人」が個人じゃないからではないかと、ふと疑問を感じました。

私もふつうに茨城大学に通ってどこかの村役場に収まっていると楽だったのですが、国立は入れてもらえなくてちがうところに行きました。個人としての息を殺して楽に生きる方法もあるのですけれど、どうもどこかでボタンの掛け違いがあって公職には就いてません。

たとえば私が個人である自分よりも、茨城県であるとか、水戸市であるとか、なんとかいう会社を自分と同じか自分のこと以上に大事に思うならば、そういう団体に所属することに喜びを感じることでしょう。しかし、個人があっての組織じゃないの?と思ってしまうので、団体戦は無理です。

学生運動をしていた先進的な当時の学生、私にしてみると親の世代が、いったい何について戦ったのかと言えば、現代の視点から見れば「個人の自由」の獲得だったと考えられます。

学生運動以前も、いまもまあ似たようなものですが、個人より組織が大切で、うまいぐあいに個人であることを「気が付かない社会」が日本なのかなと。マトリックスの最初の映画とか、攻殻機動隊の2期 S.A.C はそこらへんがテーマだったなと、久しぶりに見返してるので、へんなつながり方をしました。

たぶん押井守と弟子の神山の組み合わせがそうさせたのでしょう。

うっかりしたことは言えませんけれど、攻殻S.A.C で出てくる5.15事件にしても個人が個人として意見を言うときに、身内で集って武装蜂起した末のテロでした。あれは個人が不自由のまま生き方を問われたら、答えるための言葉が無くて、自分の意見を通すために使った言葉が武力だったから起きた事件でしょう。

いまはもう、5.15事件は起きません。 起きるとしたら中国の人民解放軍ならあり得ますけど、日本じゃ起きないなあ。

工作好き