校正は愛情

他人の文章を頼まれて直してみた。慣れない校正をすると、私は悪い姑のように粗ばかり見つけてしまう。わるいなあとおもいつつ、地の文を殺さないように文章を削ってみるのだが結果なにもなくなるときがある。手渡された文章に書きたいことが書けてないときは削るとなくなる。言いたいことを先鋭化していないと、升目を埋めるために書いたような作文は、おうおうにして何も残らない。

そんでまあ、校正を済ませたあとしばらく、ネット上の文章をみるとは無しに読むと、金がかかってないぶん煮詰め方が足りないと思う。なにが言いたいのかを見極めようとするから、なにも言ってないことを発見する。こんなときはとても困る。楽しく読もうと思っていた文になにもないときの絶望ってない。お腹が空いたときお弁当のフタを開けたら空だったときの失望に似ている。

文章も口当たりをよくするためには削って煮詰めて、材料を吟味して下ごしらえして仕立てねばならない。いわば料理である。そして、作文も思いやりだとおもう。思いやりは愛情で、料理の結城先生も「料理は愛情」って言ってた。結局私が言いたいことは、結城貢先生が一言で言ったことで、言葉を弄するだけ無駄である。