戦争と平和

ある時からブログをなるべく自分の見たことを書くようにしています。ニュースへリンクを張って感想を書くことは簡単ですけれど、いっときの感情を書いても面白みは薄く書くこともそんなにない。

よく練られた文章を読むといいなあと思います。反射神経だけで書いた文章は薄味。媒体が紙かどうかは関係なくて文字数もtwitterの文章でも知性を感じる文章はある一方、長い文章なのにいつまで経っても書いた人物の顔が浮かんでこない文章があります。読んでも意味がまったくわからん文章とか。ときどき自分でも書いてますけど。説明が足りなくて読んだ人を混乱させる文章は駄目の極みです。

だから、なるべく反射神経でないネタをと思うのですがネタを仕入れる先は自分の経験だけでなので先細ります。個人がぼんやり生きているとそれほど新たな発見はありませんし見る物すべてマンネリです。年末になってなんだかネタがないぞと思いつつ夜中に何を書くか困ることが増えました。ブログなんぞ書かずに寝ても構わないのですけれど、なんだかうんうん唸りながら綴っております。

今日はふらりと本屋に立ち寄ってみました。2010年代は月に1回ほどの本屋通い。2000年代は週一でしたから10年まえに比べて激減しています。雑誌をぱらぱらとめくっていると、なんだか零戦ブームらしくって永遠のゼロがらみの模型付きムックが置いてありました。みんな飛行機がそんなに好きなの?

特攻のことよりも作戦部の駄目さ加減とか、海軍の暗号はすぐに全部解読されてしまって筒抜けだったとかそういう部分をクローズアップすると面白いのに現場の実戦部隊の、軍部の駄目作戦に巻き込まれた少年兵をみて感傷的になるのはなんだかお門違いです。

戦争を語るときに

  • 日本人の勇敢さ
  • 零戦の高性能

この二択で収めるのはもう飽きました。

筑波航空隊の基地が公開されたのでそのうち行くと思いますけど、なんか平和の色を付けるのはやめてほしいものです。当時の日本がどんなだったのかを考えるときに、特攻した人のことを基準に考えるってのは間違っているんです。戦争のことを語りたい、それはそれでかまいやしませんけど、少年兵以外にも沢山の人が暮らしていたわけで、その暮らしのほうが私には気になります。土浦に赤線はあって置屋があって、そこに軍人がどのくらいの割合で通っていたとか、そういう話のほうが面白いはず。当時の蕎麦一杯の値段とか。そういう普段の生活をとびこしていきなり特攻の話しかしないってのは表現として血が通ってません。

ふつうのおばあさんが朝なにを食べたとか、当時のキモノの柄はなにが流行っていたとか、農家が戦争特需で儲かったとかそういう話のほうが面白いと思うんです。移動は基本馬で、今はない筑波鉄道に乗ってきたなんていう普段の生活の延長に戦争があるわけで、いきなり戦争の悲惨さを見せるのって、初対面の人に家の中のごたごたを言うような物で受け取る側には話が重すぎます。

PTA的正義とは違う場所にいるので、昔から人前で意見をいうのをためらいますが、なんであいつらいつも平和の話ばかりなんでしょう。特攻をせずに持久戦をした場合や、戦線を縮小して和平工作に持ち込んだ場合のIF戦記みたいなものはないんでしょうか。

そもそも、あの戦争をしなかったら、戦争を経た今よりも日本はもっと豊かだったはずなのに、その責任は誰も取っていないじゃないですか。大事なことに目を瞑って、現場の若者が酷い目にあって大変ねってんじゃあ、できのわるいソープオペラです。東京電力の原発事故の処理を考えるときに現場の作業員が大変だだけで意見がおしまいってわけにはなりませんよね。でもこと戦争の話はそうなるんです。