河和田丹下の土手を探そうと思う

気まぐれに買った本が面白くて読んでいます。地元の開拓についての本です。水戸には桜の牧高校という毎年二倍くらいの倍率になる人気の県立高校があります。「牧」の由来は水戸藩の馬場に由来します。牧場は一ノ牧、丹下二ノ牧、桜の牧とし名残を残しています。三ノ牧ももうすこし南の茨城町よりにあったそうな。

戦後の農地改革で入植した人の手記を読んでいたら天明の大飢饉のときに公共事業で作った土手のはなしが出てきました。

天明の大飢饉はご存じのように江戸時代の飢饉です。アイスランドのラキ火山の噴火に由来する世界的な気候変動が起こり西ではフランス革命が起きてアンドレがバスチーユに行く途中で殉死しています。大塩平八郎の乱もこの飢饉が原因です。最近ですとラキ火山は2010年に噴火してまして天明の大飢饉ほどではない小噴火ではありましたが、それでも影響は大きくヨーロッパの航空機の発着ができなくなりツインリンクもてぎで開催予定だった世界的なオートバイレースの「motoGP」の開催が延期されています。

土手に話を戻しますと、戦後の農地改革で水戸徳川家の土地であった馬場が払い下げとなりました。そのとき入植した人によると雑木林を切り開いて行く途中で邪魔な土手を削ったとあります。

たしかにあのあたりの土地はちょっと変わっています。条里制の古い農地ではありません。農家も、古い農家の家の造り方でなく土地の使い方や農機具置き場の小屋の造り方が戦後以降の構造で新しい印象を受けます。古い農家は農機具を瓦屋根の専用の立派な小屋に入れるのですが、新しく拓いた土地ですからそんな余裕はありません。

あのあたりは土地自体が平らでありませんから耕作が大変だったことが忍ばれます。天明の大飢饉のときの公共事業で作った水戸徳川家所有の馬場の柵がわりの土手ってものもみてみたいものですが、おそらくほとんど残っていないでしょう。開発の手は意外と伸びていないけれど、食糧難の時ならけずってしまいますね。